今日は、いろんな人の日本画家の著名人をネットで検索してみました。するうちに何となく昔お世話になった先生を思い出しました。その頃の私は、世間知らずでした自分だった頃を思い出します。たくさんの人からお世話になったことを思い出していました。
その方は、森戸国次(もりと くにじ)と検索してみたのです。その内容は明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。国次は日展で特選に選ばれ、さらにその後、海外を旅し、画家としての技術を磨きました。そして、森戸国次の画風は現在でも人気があります。掛け軸作家として載っていましたが、私がアトリエに入った時はパネルしか見ていませんでしたが、確かに段ボール箱に無造作に掛け軸が沢山入れっぱなしになっていたのを覚えています。
森戸国次は1904年に東京都で生まれました。芸術を学ぶために京都市立絵画専門学校に入学し、卒業後は多くの芸術院で会長を務め、日本を代表する日本画家である山口蓬春に弟子入りしました。私が聞いた話では、京都市立絵画専門学校に行く前に、中学生の頃に永平寺に入門したと本人が語っており、その時期には永平寺での作品を描いた写真集も持っているのですが、その記録が無いですね?先生本人の話では、あまりにも若かったので、周りから「まだ若いのに、よくこんなところに来たな!」と言われ変わった子と見られていたようです。
その他ネット記事には、「戦前には帝展や文展などで活躍を示して、多くの入選を受けました。戦後からは日展に出品し、『朝』という作品で特選・白寿賞を受賞しました。その後、アメリカやヨーロッパを旅し、海外の芸術を学び、ル・サロンなどにも出品し、活動範囲を世界に広げました。」と書かれていました。僕があったのは40年前頃かな?その頃は話していた事はハワイに行ってきたことをよく話してくれました。あの時は国際アカデミーを取って盛り上がっていた頃でした。ハワイから帰って来た話です。本人の話を聞いて意外と思ったのは「いや~、、あそこは熱いな~。」辛そうな表情。現地の人に「また来るよ!て言ったが?もう暑くていやだ!」せっかく選ばれたのだからそんなこと言わなくても?と思っていたぐらいです。
生徒さんに絵を教えながら、時折色紙を手に抱えて、遠くを見ながら思い出のハワイを思い出しながらハワイを描いていたのを思い出しました。その頃だったか?千葉県に国次先生の美術館を建てたいという話が持ち上がったことがありました。話は定かではないですが海の近くに建てる。だったかな?覚えていないや。
国次先生の二階がアトリエで、どういう理由で入ったのか覚えていないのですが、「ちょうど100号近いパネルの牛の絵を描いている途中な用でした。また、先生の寝床まで上がった事もあります。でも見てビックリ!これ美術館を建てるより先ずベットを買った方が良くないと思っていました。酷いんです!木でできた枠があって、それも綺麗な木ではありません。その中に昔、田舎風の布団中身に藁でも詰まっているのか?と思わせるような布団でした。永平寺での修行の習慣が残っているのか?
国次先生は、水墨画から始めたと言いていました。それが乗っていないんですよね!そのほかに彫刻を掘っていて、「僕は賞を取ったよ!」と言って自慢していましたよね。考えてみれば、僕も考えてみたら粘土を使って石灰で人物の彫刻を彫って褒められたな。
その後も記事を読んでみて驚いたのが、森戸国次先生の作品は現代の人でも、その良さが理解しやすい作品が多いため、人気があって比較的認知度が高いんだって!なるほど。
私はこの先生の作品を二点持っています、もちろん学ぶためのものです。