自己紹介 |
1961年5月5日、福島県田村市で生まれました。現在、父と母は認知症を患い、施設でお世話になっています。兄と私は次男、そして妹がいます。また、今は亡き祖母も含め、5人家族の次男として成長しました。
私の父はもともと宮大工の職人でした。しかし、私が生まれた地域ではお寺が少なく、仕事の注文もそれほど多くはありませんでした。そこで、収入が高いとされていた建具職人を目指すことにしました。その当時、その職業はエリートとして尊敬されていました。父は親として、そして職人として、その職業を憧れていました。
父はなんとかその職業に就くことができ、いつも満足そうに話してくれました。私も小学生の頃から親の手伝いをするようになりました。父は襖や障子、そして欄間を作るために、自分でデザインを決め、下書きを描き、梅や鶴、亀などの彫刻を彫る姿をよく見ていました。
当時、私が興味を持っていたのは襖の絵でした。絵といっても、絵のデザインのカタログでした。お客さんが自分の好みの絵を選んで襖を選ぶのです。しかし、そのカタログの絵には何か物足りなさを感じていました。どこでこんな絵を学べるのか、そんなことを考えていましたが、それはなかなか叶わずにいました。親からは「絵では食っていけない」と言われ、その影響もあってか、その想いはいつの間にか薄れてしまいました。
冒険
18歳の頃、千葉県市原市の会社の寮に住むようになり、そこで日本画に興味を持つきっかけが生まれました。
高校生の頃から、顔写真を鉛筆で描くことが趣味でした。19歳で就職して会社の寮でも、何気なく似顔絵を描くことがありました。そして21歳頃からか?周りに居たMOA団体の人から近くのMOA施設で水墨画の先生が教えていると聞き、興味を持ち通ってみることにしました。当時は週休二日などの余裕はありませんでしたが、月に一度の講習に通い始めました。
ここで、私の家族とMOA美術館との関わりを少し話しておきます。幼い頃から家族がMOAに関わりがありました。20歳頃、岡田茂吉の考え方に共鳴し、日本画や日本文化の世界的な注目を確信し、MOA活動に参加し始めました。話を戻します。
水墨画を学び始めると、次第に興味が深まり、水墨画だけでは満足できなくなりました。そこで日本画にも興味を持つようになりました。しかし、水墨画を学んだことが基盤となり、そのおかげで日本画の技術も向上したと感じています。
最初は慣れるまでの段階で、色紙に水墨画を描いていたら、周囲からの関心が高まり、社内で作品を求める声が増えました。最初は数百円から数千円程度でしたが、それがきっかけで順調にスタートし、やがて20号のパネルに日本画を描くようになりました。当時の心境は、「今できる技術を最大限に活かそう」というもので、無理をせずに自然体で制作していました。そして彩像美術入選しました。
その作品が好評だったことが成功のきっかけとなりました。その後、1年、2年と継続するうちに周囲の反応が変わってきたのを感じました。その時に出品したのは、縦97cm×横145.5cmの80号、25歳頃の作品でした。
失敗の連続
展覧会前日、作品を搬入するため会場に入った時、私の体に異変が起きました。会場の空気が私の身体に周りの人の思いのような物が入り込んだような感じがしたのです。この瞬間から、記憶が途切れました。気がついた時には自宅にいました。絵の先生からの電話で、『なぜ勝手に帰ってしまったのか』と問われ、自分でも理解できず、答えられなかったことを覚えています。展覧会は続き、私の絵の額に何かが違うような感じがしましたが、まあいいや、と詮索するのを辞めなした。
その後、30歳近くになってから現在の妻と出会いました。最初に会ってからしばらくして、彼女が癲癇の病を持っていることがわかりました。付き合っていく中で、彼女が急に倒れたり、救急搬送されたりすることがあり、大変な時もありました。なぜ彼女から離れなかったかという疑問があるかもしれませんね?先ほども話したように、展覧会に入った瞬間から記憶がなくなる経験をしていたので、その境遇に共感しました。その過程で、徐々に絵の世界から当のいてしまいました。
突然の出会い
結婚してから7年が経ち、待ち望んでいた子供が授かりました。その子は肌が美しく、白いというよりもピンク色の肌の女の子でした。子育てには喜びもありましたが、妻の健康問題が続き、その間娘にも十分な時間を割くことができませんでした。それでも、彼女は私たち夫婦にとって癒しでした。
娘が少し大きくなり、自立してきた頃になると、絵を描く時間も取れるようになりました。そこで近くに日本画の先生を探し、男の先生がいたので早速通い始めました。その方は油絵から日本画に画業を変えて活動をしているそうでした。ある程度通ったのですが、僕が見た感じ日本画にしては違和感がありました。どうしても日本画に見えない。「どうですか、この作品は?」と言われても言葉を返す言葉が見当たらなかったです。だんだん話しづらくなりました。しかも僕の絵と比較され、その絵描きさんも嫉妬まではいかないと思いますが通いにくくなってしまい。偶々教室内で妻の発作が起きてしまい通うことが困難なってしまいました。というか丁度良かったような気がします。
この世の中、それほど絵が上手ではなくても絵で食っていける人がいる事には驚きでした。ただ自分は妬むのではなく、この違いって何なのか?やはりこの方には何か徳があって成功しているのか?僕との違いに驚きました。
その後、平成27年8月7日公益法人国際文化カレッジ主催日美絵画展に出品し、何とか佳作で入選することができました。しかしそれでも、絵画から収入を得ることは容易ではありませんでした。将来の不安もありました。
会社内で絵を売っていた頃の話に戻りますが、その頃は価格設定に関して難しい経験もありました。ビジネスとしての側面、価値の伝達や価格設定について学びました。セールスライティングやコピーライティングの技術が、作品を広く伝える手段であることに気づいたのです。
新しい萌し
以前、習っていた先生の話ですと、バイトしながら絵を描いていたそうです。当時は、何処かの展覧会に何回か入選をするとパトロンに認められて、それなりの生活ができて絵が描ける話をよく聞きました。それで、「先生から離れてしまった自分には無理なのではないか?」と思っていたのでした。今では、インターネットの普及により、世界が広がり、誰もが気に入ったものを手に入れられる時代になってきました。この変化が私には新たな挑戦のチャンスだと感じています。